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東北電車特急嘘歴史(2)

1970年10月、輸送力増加のために、9両以下という条件のある「あいづ」と、その入出庫運用の「ひばり」各1往復と予備の3本以外の9本が
 ←上野                                           山形・盛岡→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10  11  12

    クロ-サロ-モハ=モハ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 481 484 485 482 483 481 482  483  482  483 481

の12両編成になった。

1971年7月、毎日運転臨時「やまびこ」1往復を増発するために、電動車4ユニット、クハ481を4両、サロ481を1両新造した。サシ481は489系投入で捻出された向日町からの転入車で補った。
ここから、クハ481の長編成に対応するために出力増大した電動発電機を装備した100番台になり、一部の運用が
 ←上野                                              仙台→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10  11  12

    クハ-サロ-モハ=モハ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 481 484 485 482 483 481 482  483  482  483 481

になった。
1972年3月改正で「やまびこ」2往復(1往復は臨時の定期格上げ)、「ひばり」2往復、「やまばと」1往復が増発されることになり、12両編成3本(2本は年末に投入、クハ2両は前年夏に投入済み)が投入され、
 ←上野                                              盛岡→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10  11  12

    クロ-サロ-モハ=モハ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 481 484 485 482 483 481 482  483  482  483 481

が9本(使用9本「やまびこ」「ひばり」6往復)
 ←上野                                           山形・仙台→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10  11  12

    クハ-サロ-モハ=モハ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 481 484 485 482 483 481 482  483  482  483 481

が4本(使用3本「ひばり」1往復「やまばと」2往復)
 ←上野                           会津若松・仙台→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9

    クロ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 484 485 481 482  483  482  483 481

が3本(使用2本「ひばり」1往復、「あいづ」)
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東北電車特急嘘歴史(1)

1965年10月、上野-盛岡間の「やまびこ」、上野-仙台間の「ひばり」が電車化され、前年暮れに北陸に投入された481系の50ヘルツ版の483系が投入された。電動車以外は481系と共通のため、編成は
 ←上野                                          盛岡→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10

    クハ-モハ=モハ-サロ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 482 483 481 481 482  483  482  483 481

の10両であったが、運用数に比べて一等車のサロ481が7両配置と余裕があったため、「やまびこ」とその折り返しの「ひばり」1往復は、
 ←上野                                          盛岡→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10  11

    クハ-モハ=モハ-サロ-サロ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 482 483 481 481 481 482  483  482  483 481

の11両で運転されることが多かった。
と、まあここまでは本当の話である。

1968年、米沢-山形が交流電化され、福島-米沢も直流から交流に転換された。また前年電化された会津若松へと乗り入れることととなったが、奥羽本線、磐越西線ともに勾配線区で電動車比率が3分の2以上が必要、さらに、磐越西線は9両以下に限るという条件があったために、編成の組み換え、改造が必要になった。
当初は全てのサロ481に運転台を取り付けクロ481に改造し、不足分のみクロ481を新造する案もあったが、将来の輸送力増加に必要になること、一等車定員が減少しすぎることもあり、サロ481はそのまま残り、「やまびこ」に絡む運用と予備の3本は11両のまま、残る8本はクロ481を8両とクハ481を4両新造し、
 ←上野                      仙台・山形・会津若松→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9

    クロ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 484 485 481 482  483  482  483 481

の9両編成となった。483系と485系の電動車は混用できるので、どこに入るかはわからない。

1969年10月、「ひばり」1往復の増発で、東北特急の上野方全てがクロ481になった。このため「やまびこ」に絡む運用は
 ←上野                                       盛岡→ 
     1   2    3   4   5   6   7    8   9  10

    クロ-サロ-モハ=モハ-サシ-モハ=モハ-モハ=モハ-クハ

    481 481 482 483 481 482  483  482  483 481

の10両編成になった。余剰のクハ481、2両とサロ481、3両は向日町に転出し、上野-長岡-金沢の「はくたか」の電車化や、新大阪-宇野の「うずしお」の増発に充当されたので、引き続き上野駅には顔を見せることがあった。




サロ164 ハイデッカー電車

1967年、中央東線の急行電車「アルプス」の車窓から景色を楽しむために、展望電車の製造を計画した。
当初は余剰のサロ85の台枠を用いる計画があったのだが、台車の乗り心地や検査周期の問題もあり、結局、新車として製造することになった。

二階建て電車にすると重心の問題があるため、中央部のみ中二階構造にして、床下に床置式にクーラーを設置することにした。また、自車冷房用の電動発電機を装備している。
ドアと車端の間は平屋の方が好みのお客様のために、通常の客室になっている。
新宿側に車掌室と業務用室、松本側に便所と洗面所を設けている。4号車のサロ165と便所が接することになるが、車内販売のワゴンが通りにくいために、新宿側に車内販売のワゴンを置けるように業務用室を置いてあるからである。

当時、まだ二等級制で、4号車が自由席の一等車だということもあり、指定席に連結するために3号車に組み込まれ、
←南小谷                                         新宿→ 
   12  11  10   9   8   7   6   5   4   3   2   1
 
   クハ  クハ モハ クモハ  クハ モハクモハ サハシサロ サロ  モハ クモハ

  165 165 164 165 165 164 165 165 165 164 164 165

という編成であった。

1968年10月のダイヤ改正に合わせたのだが、足ならしと急行電車の一等車の冷房化のために12両が2~3月に先行製造され、3月からパノラマ一等車の使用を開始した。
これによって松本にもともといた12両のサロ165が大垣に転出し「東海」の一等車の冷房化に充当された。このうち7両は新前橋へ転出したが、5両は10月の改正を前に松本へ舞い戻ってきた。
1970年10月に、この区間の自由席グリーン車が廃止されたので、1972年3月の改正で
←南小谷                                         新宿→ 
   12  11  10   9   8   7   6   5   4   3   2   1
 
   クハ モハ クモハ クハ サハシ サロ モハ クモハ  クハ サロ モハ クモハ

  165 164 165 165 165 164 165 165 165 164 164 165

と、基本編成と付属編成を入れ替えた編成にした。この編成は1978年10月に以前の編成に戻っている。
1982年3月、サハシ165が編成から抜かれてクハ165が組み込まれ、
←南小谷                                         新宿→ 
   12  11  10   9   8   7   6   5   4   3   2   1
 
   クハ  クハ モハ クモハ  クハ モハクモハ クハ サロ サロ  モハ クモハ

  165 165 164 165 165 164 165 165 165 164 164 165

となり、この年11月にはサロ165が抜かれて
←南小谷                                         新宿→ 
   10   9   8   7   6   5   4   3   2   1
 
   クハ モハ クモハ  クハ モハクモハ クハ サロ  モハ クモハ

  165 164 165 165 164 165 165 164 164 165

となった。1986年11月、昼間の「アルプス」が廃止されたため、普通車はローカル運用や日根野に転出して紀勢線に使用されたが、サロ164は使い道を失い、翌年2月に1と2以外の10両は廃車になった。
1と2は「パノラマアルプス」の増結車として1995年春まで使用された。

クモハ104-500

1981年春、宇部・小野田線の戦前型国電の置き換えが決定して103系の制御器をを1C4Mにし3扉ロングシートとした105系が投入された。同様に福塩線はセミクロスシート仕様の119系2両編成12本が投入された。

宇部・小野田線で1運用だけ3両編成があったので、105系2両編成と両運転台車のクモハ104が2両投入された。朝ラッシュ時のみの運用のために、時には本山線のクモハ42の運用に入ったり、クモハ104同士の2両編成もあった。

1984年秋、可部線の73系が105系に置き換わる際に、予備車見直しで府中から119系1本が宇部に入り、宇部から広島へ105系4本が転属した。残り6本は103系1000番台4ユニットとサハ1034両の運転台取り付け改造車でまかなった。
当初はクモハ105-500=クハ104-600を4本、クモハ105-500=クハ104-500を2本の予定だったが、どうせ改造するのなら単行や3両編成もという声もあり、103系1000番台2ユニットの両側に運転台を取り付けたクモハ104-500に改造した。

1987年8月にはクモハ123が5両改造されたため、クモハ104-500は4両とも羽衣線に投入されるために日根野へ転出している。
冷房改造は廃車になったり、客車に改造されたサシ481の電源を流用して自車のみの冷房改造として、1988年に全車完了している。
1995年11月、宇野線にクモハ123を投入するために、再び広島へ転出している。2000年3月には本山線のクモハ42置換えにクモハ123が下関に転入したために、クモハ104は6両全車が広島に集結している。

名古屋市電3000型 3~5連接車

第二次大戦中、どこの鉄道事業者も資材不足の中、輸送力増強にやっきであった。沿線に航空機工場を抱える名古屋市は特に大変だったであろう。近くを走る現在の名鉄常滑線が半ば軍管理になっていたのだから。

そんな1943年暮れ、2車体連接車10両が完成したが,せっかくの間接制御ということで、老朽化した木造単車10両を台車間6mに短縮し、2軸台車もホイールベースを短縮した中間台車にし、オリジナルの中間台車をはいた編成と改造台車をはいた編成を5本ずつとした。この中間車には一応外吊りのドアが設けられていたが、窓もなく手動ドア故に混雑時は冬場でも開放、それ以外は閉鎖されていた。
本来予定されていた37kwのモーターは非力に悩んでいた1400型の後期型に回し、その1400形や単車の26kwのモーターを両端台車に2個ずつ装備した。これでも2600型の37kw×2より力があり、覚王山の上り勾配に対応できるようになっていた。これにより2600型は大津橋~金山橋~東橋の航空機工場輸送用に転用された。東橋の先の大江には三菱の航空機工場があるからだ。

それのみならず、乗務員不足もあり、機器流用予定の1016型と木造単車10両ずつを連接改造して中間車に組み込んだ。5車体6台車の全長36mの電車が車がほとんど走っていないとはいえ、広小路通りを駆け抜けた。
カーブを曲がれないこともないが、ほぼ一直線の東山公園-中村公園に限定使用され,名古屋駅からは少し歩かないといけなかったが、駅前の混雑を考えればやむを得なかった。2編成を連結して走らせる計画もあったが、さすがに長すぎると没になってしまった。

これだけ長い電車が池下の車庫に収容できるわけもなく、東山公園内に専用の車庫が設けられた。この工事には東山動物園の象も駆り出された。戦争遂行のためという名目で生き残りを狙ったのだ。これが功を奏したのかどうかはわからないが、東山動物園の象は戦争を生き延びるのである。

戦後、モーター装備の中間台車2台ずつを1150型に流用したため、3車体4台車に戻った。さらに輸送量に余裕の出た1956年に中間車を破棄して当初の2車体3台車に戻っている。
地下鉄の開通で広小路線の輸送量も減少したこともあり、ラッシュ中心の運用となり、浄心や沢上の車庫に転出していった。
それも地下鉄の開業もあり、路線網縮小のために1968年に2編成、1970年に残り8編成が廃車になった。
伏見の科学館に3003が保存されていたが,現在は地下鉄の工場脇の保存館で保存されている。
プロフィール

なにわ

Author:なにわ
実写、模型、プラレール、気が向けば更新
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