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マイネ39

1930年頃、2人用個室8室、4人用個室1室の一等寝台車マイネ37140が計画されたが、マイネ37100、マイネ37130、マイネフ37200、マイネフ37230と鋼製一等寝台車が登場したばかりでもあり、北海道用一等寝台二等座席合造車のマイネロ37260に計画変更されたようである。

一方、1930年代後半、40年に開催予定の東京オリンピックに合わせて、看板列車の「富士」から二重屋根車を一掃しようと、1938年に丸屋根一等寝台車マイネ37140が5両製造された。

2人用特別個室1室、仕切りを開放すれば4人用個室になる2人用個室6室、車端に洋式、和式の便所を1室ずつ、となりに洗面所を2組、更衣室、喫煙室、給仕室を設置した。

早速「富士」に連結して東京-下関で走行を始めたが、肝心のオリンピックは1939年の第二次世界大戦勃発で中止された。1941年にはマイネ39と改称している。

1944年4月以降は疎開して終戦を迎え、1945年秋には進駐軍に接収され、車軸駆動で冷房改造され、2人個室4室を撤去して、30年代後半に合衆国に導入された1人用個室寝台(ルーメット)を中央通路沿いに3組6室、またシャワー室を設置した。1952年には接収解除され、最も豪華な寝台車ゆえに東京-大阪の夜行急行に使われたが、シャワー室は使用休止になった。

1955年の一等寝台車格下げで、マロネ59と改称した後、1956年11月、東京-博多の「あさかぜ」新設で3号車に組み込まれ、シャワー室も復活した。改正当初の編成である。
←博多                                         東京→
   1    2    3    4    5    6    7    8    9    10
 スハニ マロネ マロネ  マシ  スロ  ナハネ ナハネ ナハネ  ナハ  ナハフ
  35   59   40   38   54   10   10   10   10   10 

1958年11月以降は再び「銀河」「彗星」などに組み込まれ、1964年10月で定期運用を離れ、1966年9月に廃車された。

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マロネ36

戦後、GHQは外国の民間人の移動用に、寝台車の製造を命じ、直宮用寝台車スイロネフ38をベースにし、2人用個室とプルマン式2段寝台を組み合わせたマイロネ40を21両製造した。

一方、2等座席車は戦前のオロ40を戦災車6両を同番で補充した(張り上げ屋根車は通常型になっている)あと、戦前のラストナンバー37の次の38から51まで、航空機用ジュラルミン流用車体の52から56、そして57から81を製造、また転換クロスシートのオロ41を15両製造したが、製造してもすぐ接収の目にあっていた。

このころ、さらなるプルマン寝台車を製造しろという圧力がかかったので、オロ41をさらに12両製造し、捻出したオロ36を寝台車に改造する計画が立てられた。

何故にオロ36に白羽の矢が立てられたのか、それは1300mm幅の窓にあった。ガラスは幅が広くて開閉しにくわ、入手しにくいので真ん中で二分割している車もあったぐらいである。

トイレ側のデッキを埋め、デッキ跡は便所を広げて洋式便所と化粧室とした。その隣の座席1ブロックに洗面所を2台配置し、反対側には更衣室を設けた。
そこから6ブロックに二段寝台を配置し、ドア脇の1ブロックは給仕室、リネン室と喫煙室にした。
乗り心地向上のためにTR40に台車を変更し、広窓の開閉を防ぐためにも車軸発電式冷房装置が設置され、屋根上にダクトが盛り上がったスタイルになった。
このため重量区分は二段階上がりマロネ36となった。オロ36の番号をそのまま引き継いだため、12両の番号はは飛び飛びであった。

1951年に改造後、東京-大阪間の夜行急行に投入された。後年、東京-九州の急行に投入されるも、冷房発電機の機嫌が悪く、東京から関西、関西から九州の運用に限定されていた。
1960年代に入ると、更新修繕が施され、片方の便所を和式に改造し、余剰のスペースに男子小便所を設置した。また、冷房効率向上のため二重固定窓に改造された車両が6両あった。これらは51~56に改番されている。

1970年代に入ると、老朽化が著しくなってきたために、廃車が始まり、1973年に55と56がボーイ用訓練車に改番されて形式消滅をしたが、この訓練車の2両は1986年まで在籍していた。
また、工事用職員宿泊車となっていた6が2009年秋まで伊那谷で保存されていたが、現在は名古屋で保管されている。

715系と419系

1982年11月のダイヤ改正で、583系電車は大量の余剰車を出すことになった。車齢がまだ10~15年では廃車するわけにはいかなかった。与野党、臨調、何より国民の目が怖かったのである。
ローカル輸送用に改造しようという動きが出てくるのは当然の動きであったが、所詮は特急電車、車体に風穴ぶち開けるしかないのであった。
地方都市の通勤通学の役にもならないのならば、機器流用で車体載せ変えのほうが長く使えるという発想が出てくるのも当然であった。
そこで、1978年に製造した417系と同系統の車体を持つ、将来のローカル輸送用としての試作車713系を製造していたが、この車体をベースにした715系電車を製造することになった。

車体は2ドアでドア間がクロスシート、それ以外がロングシートとなっており、713系と異なり、
←門司港長崎・熊本・大分→
 クハ モハ モハ クハ
715 715 714 714
の4両編成であった。153系、165系の部品を転用してギア比は1:4.21となっており、475系と同等の走行性能が出るように設計されている。
それぞれの種車は、
モハネ581×12→モハ715×12(ということは、全車)
モハネ580×12→モハ714×12(同上)
サハネ581×8、サシ581×4→クハ715×12
サハネ581×8、サロ581×4→クハ714×12
であった。1983年末には登場し、1984年2月のダイヤ改正から門司港-長崎を中心に用いられた。

翌年3月には東北用に3両編成の715系1000番台が登場した。
←黒磯一ノ関→
クモハ モハ クハ
715 714 714
の編成で、種車は
モハネ583×15
モハネ582×15
クハネ581×15
であり、今回初めてモハネ583、モハネ582、クハネ581が改造種車になった。

また、直江津-糸魚川と田村-米原で直流区間があるので、
←直江津彦根→
クモハ モハ クハ
419 418 418
の419系として、更新された。種車は
モハネ583×15→クモハ419×15
モハネ582×15→モハ418×15
クハネ581×6、サハネ581×9→クハ418×15
であって、交直変換機器はそのまま転用されている。

715系0番代は1998年3月まで、1000番代は1995年11月まで使用されたのち、廃車され形式消滅したが、419系は2009年12月現在も13本が直江津-敦賀で使用されている。

サロ103

1973年4月、根岸線が全通した時、横浜の中心街と横須賀を結ぶため、103系が横須賀まで乗り入れることになり、グリーン車が必要になった。そこで蒲田区にサロ103が9両配置されることになった。

車内配置はサロ85を参考にしたが、車内販売準備室はもちろん設けてなく(グリーンアテンダントなんている訳もないです)、座席も転換クロスシートになっており、冷房は普通車と共用のためにAU75を搭載し、電源はモハ102から引っ張ってくることになった。このため、浦和区に配置予定だったモハ103-373~383、モハ102-529~539は予定を変更して冷房車で製造されることになり、蒲田区から浦和区へ同数のモハユニットが転出した。

サロ103は4号車に組み込まれ、編成は
←横須賀                                        大宮→
     1   2    3   4   5    6    7    8   9   10
    クハ-モハ=モハ-サロ-サハ-モハ=クモハ+クハ-モハ=クモハ
    103 102 103  103 103  102  103   103  102  103
     -500                              -500

となった。この編成の2,3号車には4号車に冷房電源を給電する関係から必ず冷房車が組み込まれるので、夏場には人気となった。
海側と山側のサイドビューである。
ts103-1.jpg
ts103-2.jpg

1974年6月には、横浜線新性能化用として、クハ103はATC準備車となり、グリーン車連結編成に組み込まれ、編成も
←横須賀                                        大宮→
     1   2    3   4   5    6   7    8   9   10
    クハ-モハ=モハ-サロ-モハ=モハ-クハ+クハ-モハ=クモハ
    103  102  103  103 102  103 103  103  102  103
                                   -500

となった。グリーン車連結編成の基本編成は普通車全車冷房車の目印となった。
ts103-5.jpg
この当時の3~5号車である。その後もサロ103の増備が続き、総勢18両にまでなった。

1981年2月には、将来のATC化のために、大宮方のクハ103を先頭に出すために
←横須賀                                       大宮→
     1   2    3   4   5    6   7    8   9   10
    クハ-モハ=モハ-サロ-モハ=クモハ+クハ-モハ=モハ-クハ
    103  102  103  103 102  103  103  102 103  103
                                -500 

と、組み替えた。

1986年3月、京浜東北線の電車は浦和区に集約されたため、サロ103も浦和区に転出した。この年11月、グリーン車連結編成の普通車収容定員を増やすために、10両貫通編成に組み替え
←横須賀                                       大宮→
     1   2    3   4   5    6   7    8   9   10
    クハ-モハ=モハ-サロ-モハ=モハ-サハ-モハ=モハ-クハ
    103 102 103  103 102  103 103  102  103 103

となった。
1988年以降、弱冷房車が導入されたが、通常編成では4号車なのだが、グリーン車連結編成は7号車とした。

1995年7月、同年9月に行われた東海道線と東北・高崎・常磐線との相互乗り入れのために、京浜東北線が上野-東京間で分断され、東京以南と中央線をつないで運転することになり、京浜線が高尾まで乗り入れることになり、サロ103連結編成はすべて蒲田区に戻ってくる事になった。塗装も
←久里浜                                       高尾→
     1   2    3   4   5    6   7    8   9   10
    クハ-モハ=モハ-サロ-モハ=モハ-サハ-モハ=モハ-クハ
    103 102 103  103 102  103 103  102  103 103

となったが、全区間を走行したり、高速性能の関係で特別快速運用に入ることはなかった。
1996年10月には、神奈川県内の線区は神奈川県内で担当するということで、蒲田区は乗務員区となり、1981年に乗務員区なっていた東神奈川区に名目上転出した。実際は蒲田と大船にいたのであるが。
1998年3月、京浜東北線から103系は消えたが、横須賀線の区間運転用に
←久里浜                          大船→
     1   2    3   4   5    6   7  
    クハ-モハ=モハ-サロ-モハ=モハ-クハ
    103  102  103 103  102  103 103

と組みかえられ、大船国転出したスカ色に塗り替えられた編成6本が2000年3月まで生き残った。

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なにわ

Author:なにわ
実写、模型、プラレール、気が向けば更新
議論系は別ブログ
http://kuchiwaza.blog73.fc2.com/

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